ルーズベルト経歴

セオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt II)



セオドア・ルーズベルト(第26代大統領)

任期: 1901年9月14日-1909年3月4日
前任: ウィリアム・マッキンリー
後任: ウィリアム・ハワード・タフト
生年: 1858年10月27日
生地: ニューヨーク州ニューヨークシティ
没年: 1919年1月6日
没地: ニューヨーク州オイスター・ベイ
本職: 作家
政党: 共和党

【生い立ちおよび政治経歴】
ルーズベルトは1858年10月27日にセオドア・ルーズベルトおよびマーサ・ブロックの息子としてニューヨークシティで生まれた。幼少時は病弱で、それを克服するため運動を好むようになり、グランド・キャニオンのような自然の地域に通い、アウトドアスポーツに熱中した。彼の精力的な規範は20世紀初頭、都市のスポーツ・ブームの中で運動の流行に影響を及ぼした。
彼は1880年にハーバード大学を卒業し、1882年から1884年までニューヨーク州会議のメンバーだった。1884年2月14日に最初の妻、アリス・リー・ルーズベルトと死別した。彼の妻は最初の娘アリスを生んだあとで、妊娠により診断未確定だった腎臓病に苦しんでいた。彼は妻の死後にノースダコタ州へ転居し、農場に住んでいた。1886年12月に、イーディス・カロウと再婚。彼女との間に5人の子供(セオドア・ルーズベルトジュニア、カーミット、エセル、アーチボルドおよびクウェンティン)をもうけた。
彼がニューヨークに戻ったのは1886年で、ベンジャミン・ハリソン大統領によってアメリカ行政委員会(1889年 - 1895年)のメンバーに指名され、ニューヨーク市警の警察部長を辞職した。その後、ウィリアム・マッキンリー大統領によって、海軍次官に任命された(1897年 - 1898年)が、米西戦争に従軍するためその職を辞した。
ルーズベルトは米西戦争の間に「ラフ・ライダース」連隊の指揮官として全国的に名が知れ渡った。戦争後は警視総監および州知事として、ニューヨーク州の政界で有名になった。
1900年大統領選の副大統領候補として当選、翌年9月大統領マッキンリーの死去(暗殺)に伴い大統領に昇格する。なお就任時の42歳と10ヶ月は史上最年少である。ちなみに、テディベアが誕生したのは大統領就任後のことである。1905年には日露戦争で日本・ロシア間の調停をつとめ、停戦からポーツマス条約での和平交渉に尽力した。この和平交渉の斡旋によってルーズベルトは1906年ノーベル平和賞を受賞した。
その人気にもかかわらず、彼は1908年の大統領選へ出馬しないことを決定した。代わりに、彼の政策を継続してくれるだろうと考え長年の友人ウィリアム・ハワード・タフトを支持した。しかしながら、タフトの勝利後に、ルーズベルトは、タフトが自分の政策に反する考えを持つことが分かり、ますます悩まされるようになった。
その結果、1912年にルーズベルトはアメリカ進歩党(ブル・ムース)公認候補として大統領選に立候補し、タフトに対抗した。彼は1912年10月14日ウィスコンシン州ミルウォーキーでの遊説中に、酒場の主人ジョン・シュランクによって銃撃された。軽傷だったためルーズベルトはそのまま予定されたスピーチを行った。傷は重傷ではなかったが、医者は弾丸の摘出を危険だと考え手術を行わなかった。このため彼は死ぬまで胸部に弾丸を入れたままだった。しかし、結局彼は大統領選に敗れた。ルーズベルトの出馬により共和党の支持票は割れ、民主党候補ウッドロー・ウィルソンの勝利に貢献してしまった。ルーズベルトは友人のタフト以上にウィルソンを嫌っており、ウィルソンが再選されるのを防ぐために1916年に再出馬した。しかし前回同様破れてしまった。
その後彼は1919年1月6日ニューヨーク州ナッソー郡オイスター・ベイで死去し、遺体はヤング記念墓地に葬られた。


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